S君への伝言 ノブレス・オブリージュ

S君、ブログ読んでくれていますか?
先日の息子から君への伝言はちょっと言葉足らずでした。
そこで、息子が2年前に書いていた以下の文を君への伝言として贈ります。

これは映画を作っている友人にあてて書いたものだそうです。
息子の了解を得て掲載します。
息子が君にも伝えたかった事です。

ノブレス・オブリージュ(Noblesse=貴族、Obliger=義務を負わせる)は、「身分の高い者は、果たさねばならない社会的責任と義務がある」という欧米社会の道徳観をあらわしている。
日本のエリートの矜持でもあったようだ。博報堂 中興の祖、近藤道生(故人)は、ノブレス・オブリージュを体現した古き良きエリート。亡くなる1年前の近藤道生が2009年4月「私の履歴書」の中で、自分の人生を振り返りながら、この言葉こそ生きる道標だったと結んでいる。

今、ノブレス・オブリージュが消失の危機に直面している。
誤った平等主義が民衆の心を支配し、エリートのアイデンティティが崩壊した。仕事をすることも、生きることも、全て資本主義の尺度(つまり金)で測られる。本来国を引っ張るべき資質を備えた人(エリートであるべきだった人)は、大衆と同化すべく擬態し、自らの能力を密やかに経済的対価に還元することにばかり努めている。

身分制度がない今、ノブレス・オブリージュは多少の読み替えが必要だ。
僕が個人的に再定義してみた。
「恵まれた資質をもって生まれた人間は、社会に良い影響を与える責任と義務がある」
そして、今こそ我々はノブレス・オブリージュを取り戻さなければならない。

優れた人間は、優れていない人間に比べて生まれながらに恵まれている。
神様から与えられた資質は社会への影響を通じて、世のため人のために使わなければならない。
社会に与えるべき影響は、より良いに越したことはなく、より大きいに越したことはない。

ノブレス・オブリージュは、慈善活動である必要もなく、環境保護活動である必要もない。
良いモノを作ること、良い知見を産み出し広めること・・・、とにかく「良い」が含まれていて出発点が利他的であれば足りる。利他の対象は、各々のステージや立場によって範囲が異なるだろう。
勿論、これを普通に実践していれば、経済的にも成功してしまう。でも、罪を感じる必要はない。
ノブレス・オブリージュによって得た利益を原資とし、影響のインパクトを大きくし、範囲を広げていけば良い。

芸術家を初めとした表現を業とする者は、ノブレス・オブリージュをイメージしやすいとも言え、極めてイメージしにくいとも言える。表現者としての責務を全うすることと経済的な成功との相関関係が余りにも希薄だからかもしれない。
だからと言って、経済的成功を放逐することを自らの責務と考えてはならない。表現を業とする者は、無価値な表現が経済的に成功することを阻止すべく、無価値な表現を駆除し、自らが経済的成功を収めるべく奮い立たねばならない。

ドラッカーの教えも、ノブレス・オブリージュの一要素に過ぎない。
企業の目的は利益を上げることではない、とドラッカーは言う。
顧客は誰なのか?我々は何者なのか?我々はどうあるべきなのか?
これを問い続けることで金ではない何かを企業の目的として定義することができる。
企業の目的は、ノブレス・オブリージュに他ならない。

金のために仕事をする人間、金のために表現をする人間、彼らが無能であればそれは許せる。
優れた人間がそうだとすれば、責任・義務を果たしていない許しがたい存在だ。
ところが、極端な人は、経済的成功を悪と考えるようになる。
それも間違っている。
経済的成功なくしては、継続して社会に影響を与えることができない、或いは影響できる範囲が極めて限定されてしまう。社会民主主義政権が、自国の経済を破綻させ、社会福祉に充てるべき税収を確保できなくなった、という失政もこれにあたる。
芸術活動もそうだ。経済的成功なくしては、自らの表現を限られた人にしか伝えることができない。また、懐が貧しくては、芸術活動に必要なインプットを自らに与えることができない。

さて、日本にも優れた人は沢山いる。
残念ながら多くの優れた日本人はノブレス・オブリージュを果たしていない。
表舞台にすら出てこない。そのせいで無能な人間が上にたち、社会に何の影響も与えないばかりか、金と引換に負の影響を与えている。

繰り返す。
優れた人間は漏れ無く、ノブレス・オブリージュを果たさなければならない。
、、、、、(略)
、、、、、、
ノブレス・オブリージュを果たしつつ、社会的、経済的に成功し社会への影響を継続しなければならない。

by dori3636 | 2013-01-06 22:54 | 家族・友人

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