家具の音楽@聴く自由と聴かない自由について

「音楽」が仕事だった私は、人よりも音に対するアレルギーが強いようだ。
今や音楽も含めて雑多な音が溢れているこの時代、音のない空間に身を置く時が一番の安らぎだ。

日本では1957年に最初のBGM配給会社が設立され、その5年後には、「BGM」が日本音楽配給の商標として登録されている。
70年代に入ると、レストランや喫茶店、ホテル、医療現場など多くの空間で、種々雑多な音楽が(垂れ)流されるようになった。
音楽をお構いなく流し続けるのが「時代の先端」と思われていたころの事だ。

この不可思議な現象にいち早く疑問を投げかけたのが、私の記憶が正しければ「朝日新聞」だと思う。
ある日の天声人語でこの日本での珍現象を嘆くコラムが書かれている。
このように“ぶしつけ”とも思われる作法で、「音」が垂れ流されている事を嘆く一文だった。
「海外ではこのような現象はない」と筆者は言い切っていた。

この天声人語に、「我が意を得たり!」といたく共感したものだ。

青春時代は駆け抜け、中年の苦労も終わり、老年期に入った今、日本の環境音楽はどのように変化したのだろう。
相変わらず「音」はくつろぎの生活の中に否応なく流されてはいるが、少しずつ様変わりはしている。

近年エリック・サティ―が見直されている。
人々はサティ―の「聴かない音楽」に癒しをもらっている。
BGMとして流れてはいるが、家具のようにそこにあっても邪魔にならない音楽。
意識して聴こうとする必要のない音楽。
彼の作品のテーマは「家具の音楽」なのだが、今人々が求めているのはまさに聴かなくて良いBGM。
主張しない音楽を空気のように流すのが、今の主流と言えるかもしれない。

音の押し売りは迷惑千万。
我々には、聴く自由も聴かない自由もあるのだから。

聴かない自由と言えば、苦い経験がある。
音による「和痛効果」を勉強していたころ、陣痛の痛みを和らげるために妊婦さんに「バロック」をヘッドホンで聴いてもらった事があった。
命の誕生の医療現場でのこの「もくろみ」は大失敗だった。
痛みに苦しむ患者さんがヘッドホンを投げ捨ててしまったのだ。

4千年もの昔、エジプトで妊婦さんに同じように音楽を聴かせて、出産の苦痛を和らげたという記録がある。
どのような音を聴いてもらうかも、私の「勉強」の一つで、
バロック、ロック、滝の音、、、、など色々試みた。
だが生みの痛みと闘っている妊婦さんからは、ほぼ拒絶されてしまった。
「聴かせる」いや、「聴いてもらう」のも私が嫌う不作法な「音」の押し付けだったのだから。

知らず知らずのうちに、私たちは「音」についての不作法を重ねているのではないだろうか。
「音」の配信が容易になった今、「音」は生活の中に溢れている。
だからこそ、「音」のない空間は貴重なのだ。


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by dori3636 | 2013-10-24 12:03

花と野菜と時々ゴルフ


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